水原秋桜子



水原秋桜子

 1892生〜1981没。本名は豊。大正8年東大医学部卒。はじめ「渋柿」に学び、「ホトトギス」に転じたが、昭和9年より「馬酔木」を主宰した。
 昭和20年4月の空襲で自宅・病院焼失。八王子市に移り、医業をまったく廃し、俳句一筋の生活に入った。この年12月「馬酔木」を復刊。
 昭和39年に日本芸術院賞を受け、40年、俳句協会長、41年日本芸術院会員となった。句集に「葛飾」(昭和5年)、「蘆刈」(昭和14年)、「霜林」(昭和25年)、「残鐘」(昭和27年)等多数ある。
 今は亡き昭和天皇ご夫妻の従医を務めていました。


水清きつつ新樹の楊ましろなり



 この句碑は、裏磐梯の五色沼畔に入る右側にある。昭和13年10月に、磐鏡園主人秋山義次氏によって建てられた。建碑の経緯について、桑原兆堂が「上野白浜子句集」の中で次のように書いている。
 「秋桜子の句碑を裏磐梯に欲しいという発想は、大森という猪苗代駅長であった。『十和田湖が天下に名を残したのは、大町桂月の文筆の力である』というのが大森駅長の持論で、裏磐梯の地主、秋山義次を深く感動させ、兆堂を介して秋桜子にお願いしようとなったもの。既に私は秋桜子の句碑嫌いをその頃良く知っていた。頼まれたが困ったことになったものと、先ず白浜子に相談をかけてみた。白浜子いわく『なぜ秋桜子が句碑嫌いなのか、その理由を聴いてみなさい。』と即座に明確な答えが返ってきた。なるほどそうだったと気付いて、早速秋桜子にそのことを質問してみた。秋桜子にはたいへん立派な意見があった。『芭蕉の句碑というものを見なさい。どいつもろくなものがない。寒気がするね。』『どういう点ですか。』『変な格好の石に、くだらぬ書体で書きなぐってるでしょう。芭蕉が泣いてますよ。あれじゃ。』なるほどそう言われればそういうもんだ。『しかし先生、広い日本のことだ。一つ位はお気に召した句碑があるでしょう。』とやってみた。『そうだね、富士見高原の斉藤茂吉の歌碑はいいな。』『それはどんな格好なんですか。』とたたみかけてみた。『ああ写真があったよ。』内心しめたと思った。斉藤茂吉の写真が出てきた。『先生、これと同じ位ならいいですか。』『ああ、これなら気に入ってるんだ。然し、なかなかこうはいかんだろう。』
 秋桜子はまだ渋って、なかなかうんと言わない。『この写真さえお借りできれば、これ以上のものを作ってお目にかけますよ。』ということで、ようやくにしてオーケーを取りつけ、出来上がったのが今好評を呼んでいる句碑だ。」  秋桜子は、昭和10年の秋、「馬酔木」のメンバーと裏磐梯の噴火の湯に来ている。このあと四年ほど続けて裏磐梯を訪ねている。秋山氏も今は亡く、磐鏡園も現在は五色荘と改められている。五色荘の経営者津金松女さんの話によると、当時はまだ交通も不便で、この土地の事情は現在とだいぶ違っていたらしい。
 この句碑の句は、秋桜子の句集、「蘆刈」に収められている。
 春を迎えると雪解けで沼の水も増し、水の中から枝を伸ばす楊も白く芽吹きはじめるのである。
 秋桜子の石碑として全国で第一号の石碑。



星 勝 著  増補 会津文学碑散歩より抜粋





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