|
この詩碑は、昭和31年に裏磐梯高原ホテルの裏、別館前に建てられた。大きな噴火岩にはめこまれて弥六沼に面してあった。昭和57年、建立地の裏磐梯高原ホテルが改築のため、解体されたこの碑面は外されたままになっていたが、義秀の安積中学の同級生などが中心となって再建を進め、高原ホテル玄関前の林の中に建立され、昭和59年6月除幕された。除幕式には、義秀の長男の赤田哲也さん(東京住)、長女の中山玲子さんはじめ同期生、関係者等多数参加した。この詩碑は後にホテル前の庭園に移された。
詩碑を刻んだ石版は以前と同じだが、はめこんだ自然石は原型とは異なっている。 この詩には、会津坂下町出身で、後、義秀夫人となった赤田敏と、めぐりあった日の追慕の情がこまやかに歌われている。当時を回想して書いた「裏磐梯」にその事情が詳しい。義秀が19才の早稲田大学在学中帰省した夏休みに裏磐梯を訪れる。敏との最初の出会いは中ノ沢温泉の花見屋に泊まった時であった。 「次の年の夏、その少女としめしあはせて、また裏磐梯へ行った。さすがに元の宿へは、はずかしくって行けない。磐梯山の裏手の登山口にあたる、川上温泉へ行った。 茅葺きの田舎宿である。山にも登らず、近くにある檜原の湖へも行かず、宿に閉じこもって暮らした。去る時、床の粗壁に、つたない詩を書き残してきた。 こは我等が思ひ出の宿なり なかば夢見心地の時ぞおくれる 再来の日ありやなしや よしあらうとても過ぎし日は返らじ かたみにかはす愛の歌 時に古りゆく哀しさよ この詩のとおり、私達はふたたび、この地を訪れることはなかった。妻の生前、たびたびその事を、口にしたことはあったけれども。」 この川上温泉の粗壁に書き残した詩の字句が一部改められて現在の詩碑の詩となっている。この川上温泉の宿は年代から考えると現在の滝の湯(現在の建物は改築されている)であろう。 裏磐梯を舞台にした義秀の作品には、「電光」「生ける魂」「七色の花」がある。 「電光」は作者の貧窮のどん底時代の作品で、妻敏の臨終の枕元で書いたという新聞連載小説であった。 裏磐梯で想を練り、中ノ沢温泉で執筆したという「七色の花」(昭25・朝日新聞連載)には、主人公海老原と西脇妙子が登場してくるが、作者と在りし日の敏の姿が見事に投影されている。 妻の敏は昭和13年二児を残して亡くなり、義秀は昭和22年に亡妻敏と同郷の江川澄女と再婚している。 中山義秀1900生〜1969没は、西白河郡大信村生まれ。安積中学時代から作家を志し、早大高等予科に入学し、後に兄事する横光利一(東山温泉生まれ)と知り合った。早大英文科を卒業後、しばらく中学の教師をしたが、長らく窮乏の生活を続け「厚物咲」で第七回芥川賞を受けた。「碑」(いしぶみ)「テニヤンの末日」「台上の月」「咲庵」(しょうあん)など多数の作品がある。「碑」の中の一節を刻んだ文学碑が、長沼町牛臥城入口に建てられている。 |
〒969-2701 福島県耶麻郡北塩原村裏磐梯高原秋元湖畔 |
旅館 ひばり荘 |
TEL 0241-32-2355 |
FAX 0241-32-2567 ご宿泊予約フォーム |